【程鈞・単男】
駐車場は地下二階だった。来客用のスペースにバックで車を入れ、エンジンを切って、孟嶼にひと言だけ送った。「着きました」。メッセージの手前で小さな輪がくるくると二回まわって、赤いビックリマークが出た。
もう一度送った。赤。また送る。やっぱり赤。「嘘だろ」ハンドルに向かってつぶやいたら、背中にどっと汗が噴き出した。最初に浮かんだのは、ブロックされた、だった。土壇場で気が変わるなんてよくある話だ。昆山からここまで走ってくるあいだに、夫婦なら何回だって考えを変えられる。
まず自分のことを言っておく。程鈞、三十七歳、建設の積算コンサルをやっていて、独身。おとといの夜、ある掲示板で二人の旅程の書き込みを見かけた。夫婦でドライブ旅行、途中で蘇州に二泊。書いてあったのはたった一行、「静かな人に会いたい」。DMを送って、旦那の孟嶼と夜中の二時過ぎまでやりとりした。彼は打つのが遅くて、どの文の終わりにも疑問符がついていた。
今日の午後は昆山で客先と打ち合わせだった。精算書を先方に三回も突っつき回されて、出てきたのは三時近く。高速に乗る前に道端のギフトショップに寄って、薄茶色のクマのぬいぐるみを選び、ついでにホワイトティーの香りのアロマも手に取った。女の人へのプレゼントならクマを選んでおけばまず外さない。レジで金を払うときになってやっと我に返った。相手は独り身の女じゃない。人の奥さんだ。
そのクマは今、助手席に座って、赤いビックリマークを前に汗をかいている俺を眺めている。
ファーウェイを脇に放って、アームレストの物入れから古いiPhoneを引っぱり出し、電源を入れて、アカウントにログインして、電波をつかむのを待った。古いほうは別のキャリアのSIMで、地下二階なのにアンテナが二本立った。送ってみると、赤くならなかった。十数秒で返事が来た。「駐車場の電波が悪いのかな? ロビーにいます。入って左手のソファです。急がなくて大丈夫ですよ」
ロビーの扉を押すと、ごく淡い木の香りがした。現場で挽いたばかりの杉板みたいな匂いだ。床は青いレンガで、靴のかかとが当たるたびに高く響いた。クマを抱えた俺は、右手と右足が一緒に出るような歩き方になっていた。
孟嶼がソファから立ち上がった。薄いグレーのニットに白いスラックス、黒い革靴。こざっぱりしていて、俺より若く見えた。まず笑って小さく会釈して、それから口を開いた。声がすごく小さい。「程さん?」「程鈞でいいですよ。さっきメッセージが送れなくて、てっきり……」「逃げられたと思いました?」彼は笑った。「テラスで少し座りませんか? 湖のほうはあまり人がいないので」
【孟嶼・夫】
彼がクマを抱えて入ってきたとき、僕はもうソファに二十分座っていた。ロビーを出入りする人はみんなスーツケースを引いていて、クマを抱えているのは彼だけだった。クマの片耳が脇の下に挟まって、ひしゃげていた。
蔓蔓(マンマン)にメッセージを送った。「着いた。クマを抱えてる」返ってきたのはひと言だけ。「うん」少しして、もう一通来た。「何色?」僕は返した。「薄茶。耳を脇で潰されてる」
僕は三十五歳、外資系企業で華東エリアのマネージャーをしていて、一年のうち百日以上はホテルで寝ている。会う前にDMをくれた男はたくさんいた。二十代そこそこの、ジムで仕上げた体の、写真はどれも腰から下。ひとりにも返さなかった。蔓蔓は口数が少ない。彼女は人と近づくのに手を使う。せっかちな人間には、彼女の手が読めない。仕事を終えて一時間車を走らせて、それでも途中で車を停めて彼女にクマを買ってくる男なら、ちゃんと速度を落として彼女の顔を見るはずだ。
部屋は午前中に整えておいた。バスルームには新しいバスタオルを四角く畳んで置き、封を切っていない歯ブラシを一本。入口には新しいスリッパを一足、ビニール袋から出して、つま先を内側に向けて揃えた。出張暮らしが長いとわかる。知らない部屋に入った人間がいちばん嫌なのは、自分で物を探すことだ。
ゆうべ、チャットの履歴を彼女に見せた。彼女は最初から最後まで目を通して、彼の「急ぎません、お二人に合わせます」というところで指を止めた。スマホを僕に返して、言ったのはひと言だけだった。「この人にする」
【程鈞・単男】
テラスは湖に面していて、いちばん端に小さな丸テーブルと籐椅子が二脚あった。店員が碧螺春を二杯置いて、離れていった。
「先にこれ、見てもらえますか?」彼がスマホをこちらへ滑らせた。画面には健康診断の結果、感染症四項目のページ。先週の水曜日、名前が二つ。孟嶼、舒蔓。俺も自分のを滑らせて返した。先週の金曜に受けたやつだ。俺たちはそれぞれ渡された画面を、長いこと見た。ふだん俺が数量明細書をチェックするときとたいして変わらない。
「問題なしですね」「問題なしですね」二人ほとんど同時だった。彼は少し笑って、スマホを引っ込めた。
彼はここまでの道のりを話した。杭州を出て、西塘で一泊、蘇州で二泊、そのあと南京。南京では彼の会議がまだ二日ある。話しているうちに自分のことになって、口調は道順を話すときと同じくらい平らだった。「僕は、彼女が他の人とするのを見るのが好きなんです。見ているときだけ、彼女が生きてるって感じがする。ふだんは静かすぎて。わかります?」
「わかります」俺は言った。「昔、五年付き合った彼女がいて、一回だけ試したことがあるんです。俺はホテルの部屋の外に一時間立ってた。廊下を人が通るたびに、部屋番号を探してるふりをして」「それで?」「そのあと彼女が深圳に転勤になって、それきりです」「その一時間、後悔してます?」「してません。後悔してるのは、入らなかったことのほうです」
「彼女、あまりしゃべらないんです」孟嶼は茶碗を半回転させた。「だから二つだけ、先にあなたに伝えておいてって言われてて」「どうぞ」
「今日はチャイナドレスを着てます。自分で仕立てたもので、布を結んで玉にしたチャイナボタンが一列に並んでる。彼女がひとつ外したら、あなたは一歩だけ先に進む。外さなかったら、動かないで」彼は少し間を置いた。「もし彼女がどれかを留め直したら、僕らは二人とも止まる。どこまで行ってても止まる」
「あなたはどこに?」「ベランダ」彼は上の階に向かってあごをしゃくった。「戸は開けておいて、僕は外から見てます。もし僕が自分で入っていったら、それは僕も欲しくなったってこと。待たなくていいし、呼ばなくてもいいです」
「もし彼女がひとつも外さなかったら?」「そのときは下りてきて、このお茶を飲みきって、あなたは車で上海に帰る」彼は言った。「それもいいでしょう?」
客室へ向かう途中、彼は俺の半歩前を歩いた。廊下の絨毯がやたら厚くて、二人の足音を全部食ってしまう。あまりに静かで、紙袋の中でアロマの箱が小さくぶつかる音まで聞こえた。曲がり角に二段だけの段差があって、彼が振り返った。やっぱりあの小さな声で。「段差、気をつけて」
三階の突き当たりの部屋。彼がカードをかざすと、ロックがピッと鳴った。彼は体を横によけて、俺を先に通した。
【舒蔓・妻】
ロックが鳴ったとき、私はチャイナボタンを数えていた。
七つ。襟元に二つ、斜めの前合わせに一つ、脇の下に一つ、ウエストに一つ、腰骨に二つ。全部自分で結んだ。黒いシルクのバイアス布でつくった一文字のボタン。結び玉はどれも、手のひらで何十回も転がしてやっと丸くなった。この一着は三回直した。最後は一昨日の夜、工房で。孟嶼はソファで眠ってしまっていて、私はウエストをさらに半センチ詰めた。
私は掃き出し窓のそばのソファに座っていた。背中側がベランダ、ベランダの向こうは湖。チャイナドレスは黒レースで、胸元にだけ肌色のシルクを一枚裏打ちしてあって、腕と脇腹は透けている。脚には黒いレースのパンティストッキング、その下には何も穿いていない。朝、孟嶼が下へ朝ごはんを買いに行っているあいだに、私はベッドの縁に座って、裁ちばさみでストッキングのクロッチに切れ目を一本入れた。はさみはひんやりしていた。切り終えてから、長いこと座っていた。
孟嶼は焼き小籠包の袋をさげて戻ってきて、シーツの上の黒い糸くずの小さな塊を見た。何も訊かずに、紙袋を私に渡した。「熱いうちに」ひと口かじったら熱くて、目まで潤んだ。
二人が入ってきた。孟嶼が前で、うしろの男はクマを抱えて入口で立ち止まり、しばらく私を見ていた。写真より日に焼けていて、背が高い。シャツの袖を前腕までまくっていて、クマの抱き方がひどく不器用だった。
「これ……あなたに」彼は近づいてきて、クマを差し出し、続けて小さな紙袋も差し出した。「あとアロマも。ホワイトティーの。好きかどうかわからないけど」
私は受け取った。クマはすごく柔らかくて、毛が少しちくちくする。お腹にリボンが縫いつけてあって、縫い目が曲がっていた。私は三十二歳、チャイナドレスを仕立てて九年になる。お客さんからはシルクをもらったことも、宋錦をひと巻きもらったことも、翡翠の腕輪をもらったこともある。クマをくれた人はいなかった。私は笑って、彼を見上げた。「ありがとう」
「バスルームのものは全部置いてあります」孟嶼が彼に言った。「先にシャワー浴びてきますか? タオルは畳んであるほうを使ってください」「はい」彼は頷いて、入っていった。
孟嶼はソファの脇にしゃがんで、クマの耳をまっすぐに直しながら、小声で訊いた。「大丈夫そう?」私は頷いた。「この人で?」もう一度頷いた。「じゃあ、出てるね」彼は私の指を一度きゅっとつまんで立ち上がり、ベランダの戸を半分だけ横へ引き開けた。
レールが長く鳴った。湖の風が吹き込んで、紗のカーテンがふくらんで、また落ちた。彼が出ていって、影がカーテンの向こうで止まった。車の中で決めたことだ。彼は外、私は中、そのあいだにあのレール。入ってくるなら、彼が自分の足でまたぐしかない。
バスルームでシャワーの音がしはじめた。ざあざあという音が、だんだん途切れ途切れになっていくのを聞いていた。首をこすっている。髪を拭いている。バスルームのドアがちゃんと閉まっていなくて、歯ブラシのプラスチックケースを破る音、うがいの音、二回吐き出す音まで聞こえた。
私はクマをソファの肘掛けに置いて、顔を湖のほうへ向けてやった。
水音が止んで、ドアが開いた。彼は白いバスローブ姿で出てきた。髪は濡れていて、紐をきつく締めすぎて、腰に皺が一本食い込んでいた。結び目は固結びで、両端がぴったり同じ長さだった。
その結び目を見て、店に初めて採寸に来た男のお客さんを思い出した。試着室に入るなり、まず上着のボタンをいちばん上まで留めた。まるで私の手のメジャーが噛みつくとでも思っているみたいに。
彼はベッドの足元に立って、手のやり場に困って、私を見て、ベランダを見た。「俺、先に……何か……」彼が口を開いた。
私は立ち上がって、最後まで言わせなかった。
手を上げて、襟元のいちばん上のチャイナボタンに触れた。親指で結び玉をループのほうへぐっと押して、もうひと弾き。ボタンが外れた。シルクがシルクをこすって、ごく細い音がした。襟がゆるんで、首筋から風が入り込んだ。
それから歩み寄って、彼のバスローブの固結びをつまみ、外へぐいと引いた。