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第1章第一章 半分まで

行者 · 2693文字 · 日本語

【景嵐・妻】

黒石灘キャンプ場、標高三千二百メートル、午後五時十分。私はアルミ鍋の前にしゃがみこんで、ガス缶を一つ握りしめていた。缶とバーナーヘッドの口が合わない。三回ねじって、手に機械油の匂いだけが残った。

「畢揚、ライターどこ?」

車の屋根からは返事なし。うちの人、三十三歳のキャンプギア動画配信者は、ルーフラックに腹ばいになってカメラに防風カバーをかぶせながら、ぶつぶつ唱えていた。「インターバル三十秒、まず夕焼け、星が出るまで、一枚も途切れさせない」

「ライター」「バッグの中」

三つのバッグを底までひっくり返した。蛍光ロープが二巻き、カラビナが四個、未開封の蚊取りマットが一箱。ライターはない。私は三十歳、街でカフェを一軒やっていて、ハンドドリップのラテで白鳥が描ける。それが標高三千二百メートルに来たら、鍋一つの湯も沸かせない。人に話せば小咄だ。誰も笑わないほうの小咄。

立ち上がって、ズボンについた草くずを払い、隣のサイトを見た。グレーのソロテント。男が一人、折りたたみテーブルの前に座って、小さなハンマーで石を叩いている。コツ、コツ、一打ずつ。うちの人のシャッター音よりよっぽどリズムがある。

【岳川・単男】

あの女がこっちへ歩いてきたとき、俺は岩芯の袋に番号を振っているところだった。テーブルには二十数個の石が並んでいて、彼女はそれを見てあからさまに一瞬固まった。たぶん、売ってるんだと思ったんだろう。

「こんにちは、火を貸してもらえます? うちの人がライターを隠しちゃって、自分でも見つけられないくらい隠しちゃって」

薄手のフリースを着て、ファスナーは顎まで閉めてある。顔は高原の日差しでちょっと赤い。しゃべりながら自分で先に笑って、笑い終わってからもう一言足した。「わかってます、カフェやってる女が山の上まで来て火を借りるなんて、けっこう恥ずかしいって」

俺はズボンのポケットから防風ライターを出して渡した。「側面を押さえて。風が強いときはバーナーヘッドに直接当てて」

「地質の人ですか?」「探査。この辺の岩層を、一人で三年回ってる」「一人で?」「一人のほうが静かだ」俺は言った。「岳川。三十六。ここは七回目」

「景嵐。三十。初めて」彼女はライターを振ってみせた。「戻って湯を沸かしてきます。沸いたら一杯持ってくる。コーヒー売ってるんで、腕はまあまあです。湯を沸かすよりは」

歩いて戻る背中がまっすぐだった。ズボンはキャンプ用品店の定番のワークパンツで、腰のところがきゅっと絞ってある。かがんで火をつけるとき、その腰のラインが下に押しつけられて、尻が布を丸く張った。バーナーがボッと音を立てて点き、彼女が振り向いてライターをこっちに掲げた。俺は手の中の岩芯を袋に戻して、番号を書き間違えているのに気づいた。彼女が言った数字を書いていた。

【畢揚・夫】

「皆さん、今日は黒石灘、標高三千二百メートルです。今回のサイトの設営をお見せしますね」

スマホを掲げてテントを一周した。オレンジの二人用テント、マット、二つの寝袋を一つに繋いである。レンズがテントの入口を通るとき、わざと一拍止めた。「ここ、ちょっとしたコツです。ファスナーの引き手には全部、蛍光ロープを一本ずつ結んであります。夜、ライトをつけなくても手探りで見つかる」蛍光グリーンのパラコードが風に一度揺れた。すごく明るい。

画面の外から景嵐が叫んだ。「お湯沸いたよ、麺がのびる」

「うちの景オーナー」レンズを向けると、鍋の前にしゃがんで箸で麺をかき回している。「カフェのオーナー、今日は食事担当です」「のばす担当ね」彼女はカメラに向かって白目をむいた。「皆さん、この人の真似しちゃだめですよ。ライターも持ってきてないんだから」

録画を止めた。彼女は麺を二杯運んできて、それから保温マグに半分ほどブラックコーヒーを注いで、隣に持っていくと言った。

「隣のあいつに?」「ライター貸してもらったの。あんたはライターの一本もないくせに」「一人なのか?」「地質探査だって、一人で三年回ってるって」彼女はちょっと間を置いた。「いい人だよ、口数は少ないけど」

隣のサイトを見た。ちょうど男が顔を上げた。背が高い、肩幅が広い。手の小さなハンマーが石を二回叩いて、澄んだ音がした。十メートル離れているのに、俺の車のドアを叩かれたみたいに聞こえた。

俺は何も言わなかった。俺たちには、一度もはっきり話したことのないことが一つある。二年前、彼女の誕生日の夜、酔った俺が彼女の耳元で一言言った。お前が他の男にハメられるところを見たい、と。彼女はそのとき笑いながら俺を一発はたいて、酔っ払いが口に戸を立てないと罵って、その後は二人とも二度と口にしなかった。でもそれ以来、やるたびに、俺が上で彼女が下で、彼女の目はいつも閉じていた。目を閉じて誰を見ているのか、俺は知らない。

【景嵐・妻】

暗くなるのが早かった。コーヒーを持っていったとき、岳川は石を片付けていた。一つずつ帆布の袋に入れていく。石と石がぶつかって、カツ、と鳴る。

「砂糖なし。腕が悪いって思われるのが怖いから、先に苦くしときます」

彼は受け取って一口飲んだ。うまいとも、まずいとも言わない。ただ頷いた。ああいう人は、頷くほうが他人の百の言葉より確かだ。

私は彼の折りたたみテーブルの脇に座った。彼のテントの入口はファスナーが半分まで開いていて、中に寝袋一つと小さなランタンが一つ見える。灯りは暖かい黄色で、寝袋の上に開いたままのフィールドノートを照らしていた。

「テント、閉めきらないの? 蚊入らない?」

「隊の決まりでね」彼は言った。「野外じゃ一つのキャンプに十数張りテントがある。誰も人を呼ばない。ファスナーが上まで閉まってたら、来るな。半分までなら、入って座っていい」

「しゃべらないの?」「しゃべらない。一声出せばキャンプ中に聞こえる。ファスナーなら、見たい奴にしか見えない」

私は笑った。「うちのテントなんて、ファスナーの引き手に蛍光ロープまで結んであって、十メートル先からでも見えますよ。見られないのが怖いみたいに」「あれはあんたの旦那が結んだのか?」「あの人。動画で使うんです。結んだら解説までするの」

私は立ち上がった。「戻ります。カップは明日取りに来ます」

岳川が顔を上げて私を見た。小さな灯りの下で目がとても黒かった。「ファスナーのこと、覚えておけばいい」

戻る途中、脚が少し力なかった。もちろん、高山病かもしれない。私という人間は他に取り柄はないけれど、気まずいときだけは口がやたら早い。どんな場面でも自分を落として一言はさめる。なのに、あの「ファスナーのこと」に、私は一言も返せなかった。自分たちのテントの入口まで来ると、蛍光ロープが目の前で揺れた。私はそれを三秒見下ろした。知っている人の顔を見るみたいに。

【畢揚・夫】

夜九時、テントの中、俺たちは並んで横になっていた。ヘッドランプは消してある。

「隣のあいつ、お前を見る目、気づいたか」「気づいた。私のコーヒー見てたよ」「景嵐」

彼女は寝返りを打って、俺に背を向けた。テントの外は虫の声がびっしりで、隣のサイトのガスストーブがまだシューシュー鳴っていて、時々あいつの鍋の蓋がカタンと鳴る。

「二年前のあの言葉」俺は言った。「俺は酔ってなかった」

彼女は動かなかった。「今夜、俺は車の屋根で星の軌跡を撮る。三時間、インターバル三十秒、一枚も途切れさせない」手を伸ばして、彼女の手に触れた。指がとても冷たい。「俺は戻ってこない。ずっと屋根の上にいる。ここから十メートル」

「それで?」

「ファスナーはお前が決めろ」俺は言った。「上まで閉めたら、俺は十時半まで撮って戻る。何も起きなかったことになる。半分までなら、俺はそのまま撮り続ける」

彼女は長いこと声を出さず、それから一つ笑った。自分をネタにするときの、あの笑い。「あんた、女房をタイムラプスの素材扱いしてるのね。三十秒に一枚、撮り終わったらBGMまでつけてくれるわけ?」

「中には入らない」俺は言った。「聞くだけだ」「屋根の上なんて高いところで、何が聞こえるのよ」「このキャンプ場じゃ、あいつが石を叩く音まで聞こえる」

彼女はまた黙った。俺は長く待った。隣のガスストーブが消えて、虫の声がどっと浮き上がってくるまで待って、やっと彼女の声が聞こえた。「途中で屋根から降りてきたら、あんたが何も言わなかったことにするから」「屋根から降りれば音がする。お前にも聞こえる」

俺は寝袋を開けた。ファスナーが静寂の中で怖いほど鳴った。出るとき、入口のファスナーを上まで閉めた。蛍光ロープが目の前で一度揺れた。俺は触らなかった。

【景嵐・妻】

ルーフラックがギシッと二回鳴って、それから彼が登っていく音。靴底が鉄をこする音。それからカメラのシャッター、カシャ、とても軽い。三十秒、またカシャ。

私は寝袋の中で数えた。二十回目のカシャを数えたとき、人生で一番ばかげた決断を、マットの匂いのするテントの中でいまから下すんだと思った。結婚写真だってスタジオで撮った人間が、こういうことになると急にロケーションにこだわり出す。

隣のサイトは物音がしない。虫が鳴いていて、風がテントの下から潜り込んできて、テントの布が膨らんでは縮む。誰かが外から軽く叩いているみたいに。

私は起き上がった。入口の、あの蛍光ロープが目の前にある。緑が光るほど明るい。うちの人が結んだやつ。しっかり結んである。二重結び。

手を伸ばして、ファスナーの引き手をつまんだ。

手が震えていた。自分に言い聞かせた。景嵐、あんたは三十歳、ラテを売ってる女、標高三千二百メートルで自分ちのテントの入口に隙間を開けるだけ。大したことじゃない。せいぜい風邪をひく。せいぜい明日山を下りて風邪薬をもう一箱余分に買う。

ファスナーを上から下へ引いた。歯が一つずつ離れていく。音がテントの中で大きく増幅されて、外の虫を全部足したより響いた。半分まで引いて止めた。蛍光ロープが垂れて、隙間の中で揺れた。

車の屋根で、カシャ。

隣のサイトのファスナーが、一度、鳴った。